絶縁していた母と再び会うようになる
一度目は1年半、二度目は2年半の絶縁期間を経て、少し前から私は母とまたつきあうようになった。
母は基本何も変わっていない。かろうじて変わったと言うならば、私に避けられた理由を完全には理解してはいないけれど、自分が私に愚痴を垂れ流していたのはよくなかったと反省はしていることだ。
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母は愚痴を言う名人だ。しかし、母の友人たちの話を漏れ聞くなら、それは母に限ったことではないらしい。自分の人生の責任を自分でとらず、自分が心地よく生きられないことを他人や世間のせいにする人は、たぶん山のように存在しているのだろう。母にすれば、自分だけがなぜそれを責められるのか?という訝しさは、死ぬまでなくならないことだろうと思う。
しかし、他人のことをどうこう言えはしない。「毒親」などと人にレッテルを張って、私だってさんざん毒親を批判してきた。今更だけれど、それは自分に必要なプロセスだったと言い訳しなくてはならない類のものだったなと、正直に認めたい。
一度目の絶縁より、二度目の絶縁のほうが苦しかったかもしれない。なぜなら父が亡くなり、一人しか残っていない親である母も80代の半ばを過ぎる頃だったからだ。会わないまま今生の別れとなる可能性も十分にあった。
それでも私は、自分が間違いなく大丈夫だと確信できるまで母と会わないことを決めていた。中途半端に母に怒りを感じたままで元の状態に戻ったら、私も母も傷つく結果になるだろうとわかっていたからだ。
自分を取り戻すための時間
二度目の絶縁のきっかけは、一度目の時の反省で長らく私に気を遣っていた母が再び調子に乗り始めた時に起こった。「このまま行ったら人生終わりだ!」と、いきなり頭の中で声が響いた。
この声の正体は自分自身なのか、それとも人智を超えた何かなのかはわからないが、私の人生の岐路にそれは響くのだ。そして、過去それに従ってした行動は、私の人生をより幸せな方向へと導いてくれた。
私の唐突な、でも静かな絶縁に母は取り乱し、怒り、悲しんだ。私は明確な理由を告げずにそうしたからだ。彼女は悲劇のヒロインとなり、私は悪者になった。でもあの時もしそうしなかったら、私は自分と自分の人生を失いかねなかった。
母との絶縁期間は、私が私を取り戻す期間だったと言えるかもしれない。それは、もうずっとずっと若い時に済ませておかなければならなかった「親離れ」と「自立」の課題との向き合いだった。
くしくもコロナの期間と重なり合ったその時間は、自分が気づかずにずっと握りしめてきた深い絶望感の正体を見極め、そこにはもういたくない自分の魂の声を拾い上げ、自分しか自分を幸せにできないことに気付くためのものだった。
私はずっと子どもでいたかったのだ。私を無償の愛で包んでくれる絶対的な存在としての母に、心から愛されたかったのだ。
しかし、私の母は無償の愛で私を包む存在と言うには幼すぎた。わが子は自分に所属するモノだと、子どもは自分のモノだと信じていた。自分を喜ばせる存在、自分を幸せにしてくれる存在でないと、彼女は愛せなかった。それは悲しい母の生い立ちに由来してはいるのだけれど、同じ境遇でも成熟した大人になった人はいくらでもいるのだから、そのことさえも母の幼いゆがんだ自己愛、自己憐憫なのだろう。
私の自立、そして親離れは、母が(父も)毒親と呼ばれても仕方のない「親としては適切でない言動の数々を私にしてきた」ことを本当の意味で認め、おなかに落とす必要を認めることから始まった。自分の親が、しょうもない愚かな言動をたくさんする不完全な人間であることを認めることは、頭でわかっていても実はとても難しいことなのだ。
自分を許すことから始まる「親離れ」と「自立」
今、孫たちを見ていてよくわかるのだけれど、親は子どもにとっては絶対的な神のような存在なのだ。文字通りおなかの中にいるという密着の時代を過ごしたその相手に、見捨てられたら子どもは死んでしまうのだ。
その最愛で最重要な相手に、条件付けの愛しかもらえないのなら、子どもはそれを受け入れるしかない。親がどれほど未熟な人間であっても、自分の存在そのものの根源なのだから、それを受け入れるしか生きるすべはない。
私は身体的な虐待を受けた訳ではないけれど、そういう境遇にいる子どもたちと同じように、未熟な親であっても、親を拒むことは自分の生命を拒むことと同義なのだと親に執着していたのだと思う。
だから、親と絶縁することは、決して楽なことではなかったのだ。それがわかっていても、そうするしかなかった自分を許すことが必要だった。そう、絶縁という手段は私にとって、親が望む自分でないことを、何より自分自身が自分を許すチャレンジだったのだ。
そのチャレンジが満了するのは、自分が自分を許せたときだ。親の望む姿の自分、親を喜ばせることのできる自分、親を幸せにできる自分・・それらすべてとかけ離れていたとしても、自分は自分なのだと認められるときだ。
私にとって毒親問題についての学びは、自分の親を客観的に見る訓練のようなものだった。自分が望む姿を親に投影していることに気付き、実はそこに絶望していた自分の悲しみを認めることだった。
親に変わってほしいという願望は、自分自身の人生を外にゆだねる行為と同じだった。変わってはもらえなくても、自分を認めてほしいという気持ちを握りしめているうちは、親の言動に一喜一憂する自分から離れられないのだった。
たとえ目の前に親のいる生活をしていなくても、同じものを誰か別の人に投影し、人生のあれこれをややこしくしてしまう。人生の苦しさのほとんどは、そういう道筋で起こってくるのだと私は思う。
私の親離れのプロセスは、いつ親がこの世からいなくなるかという恐怖と共に進められてきた。毒親問題についての学びによって、何が私に起こっていたかの理解を深めたあとは、やがて焦点を自分自身に向けられるようになった。
親がいてもいなくても、親孝行したという実感があってもなくても、親が望む人間になれてもなれなくても、私はこのまま「ただの私」でいてもいいのだとわかってきた。
自分を一番責めていたのは自分でしかなくて、自分を許すことができるのも自分でしかなくて、それをするのに親の許可はいらないのだということが、段々と身に染みてきた。そう、自分の人生に親の許可はいらないのだということに気付き、それを実行できるようになるのが「親離れ」そして「自立」なのだと体感は深まっていったのだ。
母との新しい関係性
母と再び交流を再開するにあたって、私はまるで先週も会っていたかのように、さりげなく普通に連絡をとり会話を始めた。彼女に謝ることもせず、もちろん責めることもせず、ただ自分が心地よく楽しくいられる状態のまま、私の人生に再び母を招き入れた。
そして二度目に会ったときに、母のいつもの自己憐憫の会話からの流れで罪悪感を感じさせられることを静かに拒否して、私は「母のために生きる子ども」から脱却し、「私のために母と付き合う人生」を選択することを、そのままの言葉ではないけれど母に伝えた。
タクシー嫌いの母のアッシーになることはしないこと、愚痴を垂れ流すのを聞き続けるつもりはないこと、私も母もハッピーでいるためになら会うということを、彼女が理解したか納得したかは関係なく、ある意味自分の宣言として話すことができた。
それらを伝えても、愚痴でできている母から愚痴を切り離すことはできない(笑)ただ、愚痴から離れることはできるので、そんな時は私は別の楽しい話題に切り替える。母の都合のよい愚痴の聞き役・相談役であることを手放さなかったのは、他でもない私自身だったことに気付いたからだ。母の役に立つ子どもというポジションを、どこかで失いたくはなかった自分がいたのだった。
再び母と接触し始めてから2カ月目の8月、青森ねぶたを観たいという母を2泊3日の旅行に連れていった。激込みの青森でちょうどよい宿などとれるはずもなく、色々と算段しなくてはならなかったけれど、そこは私の得意分野なのでうまい方法を見つけて、無事ねぶたを観てくることができた。仙台の七夕まつりのオマケつきで。
ツインの部屋をとれなかったこともあったが、夜は別々の部屋にして自分のスペースを保ち、私はいつもの私のままで、母との旅を楽しむことができた。子どものように楽しそうに喜んでいた母を見られたことは、私にとっても喜びだったけれど、もうそのために自己犠牲をしない自分を確認できたことは、それ以上の喜びだった。
親を自分の人生から締め出すことで漏れていた私のエネルギーのようなものが、私の中に戻ってきたような感覚を味わった。きっと母はそのうちまた調子に乗るだろうし、以前のように頻繁には会うことをしないだろう私に陰で不足も言うかもしれないけれど、母の顔色で自分を動かすようなことは二度としないと確信できた。
私は、私自身のために、これから母との楽しい思い出を増やしていこうと思っている。もし、母がそれ以上のことを望んできて、また自己憐憫を見せて私の罪悪感を喚起しようとしても、その沼の中には入らないと決めている。
親離れという課題は、本当の意味でそれを成し遂げている人は少ないのかもしれないけれど、親のために自分の人生を損なうような行動をしないとはっきり言えるレベルにおいては、私もそうであろうと思っている。
毒親問題の解決とは、自分自身を信頼して生きること
真の自立というものは、真の自己信頼と同義だと思う。私は私の人生を大切に生きるために、自分が心地よく幸せにいられる選択をとり続けていくことに自信を持とう。
親離れができている人、本当の意味で自立している人にとっては、毒親問題とは問題にする必要もない単なる親の条件というものになるのではないかと思うのだ。
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