どれほど毎日が平穏で、どれほど毎日が幸せで豊かであったとしても、満たされない時がある。それは、自分自身の魂の望みを生きていないとわかっている時だ。
魂の望みとは何か?善行を積むことか?より豊かになることを目指すことか?より自由になることを目指すことか?
ひとりひとりにとって、それは違っている。大きな括りでこれだ!という答えを導き出すことは難しい。
魂の望みとは何か?
それは、あなたらしく生きることだ。この肉体を持って、あなたが自分のバイブレーションを何かの形にすることだ。
だから、自分と違うバイブレーションを持つ人からのアドバイスは、いつも何かどこかが違う。なぜなら、答えを出せるのは自分自身でしかないからだ。
バイブレーションを形にして表すこと、それをぴたりと成し遂げることができた時、無上の喜びに満たされる。それが何であっても、どんなことであっても、それを見た別の人の心も揺さぶられる。
感動した!と誰かが言うとき、そこには、誰かのバイブレーションがぴたりと何かの形で世に表されている。それが芸術であることもあるだろうし、口から溢れだす言葉であることもある。身体を使った表現であるときは、スポーツやダンスという形であるかもしれない。
幸福の定義を追い求めるのではなく、誰かの作った形をかき集めるのでもなく、どんなにささいなことでもよいから、自分のバイブレーションを外に形にして表していくとよい。
そこに満たされる感覚は、自分が生きていくときに欠かせない「自分を生きる」という感覚だ。
道筋はいくらでもある。方法もいくらでもある。この世界に何一つ同じ道はない。同じように見えるとしても、それはすぐそばを通っている道でしかない。
いつでも自分に最高にフィットするものを見つけていくこと、それを実行していくこと、その積み重ねが自分が自分であるというゆるぎない感覚を満たしていく。
そして、バイブレーションは別のバイブレーションと美しく共鳴する。二つと同じものはないのだけれど、その重なりが美しく共鳴するとき、そこには自分ひとりでは為し得ない何かを創りだす道が開ける。
人生を楽しむこととは、その共鳴を楽しむことも含まれる。満たされて生きる事、それはすべての人に与えられている機会であり、壮大なる人間というかぶり物の実験なのだ。
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