信仰は人を幸せにする?!

何かを信仰するということが、人が幸せになるためにはどうしても必要なのではないかと、近頃ふと思う私です。

【信仰・信向】
① ( 信仰 ) 神や仏などを信じとうとぶこと。誠心を捧げて信ずること。
② 一般的に、信頼して疑わないこと。

精選版 日本国語大辞典

信仰というと、宗教を思い浮かべることが多いかもしれませんが、それのみではありません。私の思うそれは「何かを信じてそれを人生の規範とする」ということです。

それは宗教のみならず、何らかの信念体系や考え方、自分の憧れる人の生き方や考え方、もしくは自分自身の中から湧き上がってくる(直感的な)思いというものを、深く信じてそれに従って生きるということです。

世の中にはたくさんの「考え方」や「そうあるべきこと」の主張が混在していて、自分が真実だと思う考え方や信じていることと、自分以外の人のそれとが違うとき、どちらが正しいかを主張しあいます。

時には自分が信じていることが正しいかどうか、真実かどうかに揺らいでしまって、自分の生き方そのものが揺らぐ人もいます。

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私自身は、幼い頃のキリスト教(幼稚園で教わった)から始まり、親が私に教えたこと、小説から教わった人生観、ノウハウ本の作者の主張、漫画のストーリから学んだ人生観、新興宗教の教え(2~3団体)、スピリチュアルを標榜する教えの数々(山ほど!)、形而上学や心理学ベースの講座、YouTubeの情報 etc…
たくさんの遍歴があります。

そして一周回って今は、小説を読んだり、自分の体験を通してやってくる真実(だと自分が感じること)に着地しているところです。

長い!笑 長すぎる旅でした。
この世界には人の数だけ真実があるのに、どれが本当だろうか?と探し求め続けた人生でした。

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つい先日、無事に人生一回りの節目として、私は還暦の誕生日を迎えました。自分が子どもの頃思っていたその節目の年齢の人は「おばあさん」でした。でも、今の自分は自分をとうていおばあさんとは思えません。(現実的には孫もいるのですが!笑)もちろん、日本人の寿命が延び、60歳は老齢というにはまだ若い年齢になったということもありますが、それよりも私の中の記憶と体感が、今でも眠る前にイエス様にお祈りをしていた小学1年生の時と繋がっているからなのです。

私にとって「おばあさん」というのは、人生の悟りのステージにいる、もうやり残したことがほとんどない人という感覚でした。確固とした自分の信念や信仰によって毎日を淡々と生きている人、というイメージでした。

孫をたくさんの愛情で包み見守るというもう一つのイメージでは、私はその通りのステージにいますが、いまだ人生を模索し続けているという点で、まだまだ人生を一周した人には至っていないという感覚なのです。

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実は還暦の誕生日の直前に、5泊6日で沖縄へ一人旅にでかけました。これまでの人生の総括をするために、そしてこれからの人生への展望を感じるために、私には一人きりで過ごす時間が必要だったのです。

その一人旅は、例年ならもうやってこないはずの台風の影響で、沖縄本島北部に大雨で土砂災害が起こった日程と2日間重なりました。実は私の直感は、全日石垣島やそこからの離島がよいと教えてくれていたのですが、頭が無理やり2日間を本島に行くように仕向けたのでした。

本島では俗にいうスピリチュアルなパワースポットのいくつかに行く計画を立てていたのですが、見事に大雨に遮られました。たぶんどこかで私は知っていたのだと思います。そういう場所を訪れる必要はもうないのだと。少なくとも、そういう目的でどこかを訪れる必要はないし、訪れなくても私には何の影響もないということを、私はたぶん確認したかったのだと思います。

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雨で燻る灰色の海を眺めながら、私はホテルの室内で持ってきた本を読み、一人の静けさを堪能しました。翌日は北部に宿をとっていたため、警報の出ている市にレンタカーで向かいました。ありがたいことに私の泊まったホテルは災害の影響は免れていました。

行こうと計画していた場所はすべて行くのをやめにして、ただただ直感の導くまま、私は動きました。ワイパーを振り切るほどの土砂降りの中の高速をひた走り、車のスピードが雲を追い越して急に陽が差す美しい瞬間を味わいました。どこにいても、何をしていても、私は静かに自分と自然とに繋がっていました。

予想外の大雨に出会ったお蔭で、私の中で何かがクリアになりました。そうして、その静かになった内なる自分とともに、たくさんの陽の光にあふれた離島をその後の日程で満喫したのでした。

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一人旅から戻って、誕生日当日にも家族からたくさんの愛情を受け取って、その後にはSNSで友人たちからもお祝いの言葉を頂き、私は大きな節目を通り抜けました。おばあさんになった気持ちはしないけれど、子どもの頃に思っていた何かを悟った心境には少し触れたような気がしています。

長々と書いてきましたが、それが冒頭に書いた「人が幸せになるには信仰が必要なのではないか」という思いです。

どこにも、真実の答えはないのです。私が長年探し求めてきたものはなかったのです。人は自分が信じたいものを信じて、それをベースに人生を生きると安定して幸せになれるのではないか?と私は思うに至りました。

その信じるモノは、何かの宗教でもよいし、スピリチュアルでもよいし、親から教わった信念体系でもよいし、大好きなスターが語る物語でもよいし、心がほっとする小説の主人公の考えでもよいのだと思います。

大切なのは、それを信じることで、自分が自分らしく在れるということではないでしょうか。笑顔になれることです。いや、苦しくなることを体験したいなら、それでもよいのです。苦しみや悲しみという体験そのものを人生の醍醐味だと感じる人がいてもよいではないかと思うのです。

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そういう風に感じるようになってきたら、自分以外の信念や考えを攻撃する人を見ると、なんだかな~としらけるようになってしまいました。これまでの私は毒親のことを書いたりもしてきましたが、毒親の信念体系を自分の規範としたい人がいても、それはそれでよいのではと思うようになりました。

人生はとことん自由なのです。苦しい思いをしている人も、実は心の深層では、それをドラマや小説のストーリーのように、そういう体験を楽しんでいるのではないかと感じるようになったのです。

つまり、信仰を持つということは、自分の人生を自由に生きるための一つの方策だと思い至りました。推し活をすることが人生を彩るように、自分の中に何かを信じる気持ちが明確にある方が、より自分自身の人生を信頼して味わい深く生きられるのではと思うのです。

人の数だけ信じるものがあるのですから、どちらがより正しいかと争うことは無益です。その無益さを知れば戦争もなくなるし、さまざまな争いごともなくなることでしょう。

推し活はあくまでも本人が推すものを決めるのであり、自分の推しが唯一無二だというのも変な話です。「あなたの推しは素敵ね!私もちょっと推してみようかな」と言われたなら、一緒に推し活を楽しめばよいのだと思います。

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さて、さんざん変遷した私の推し活、いえ信仰は、「私自身の内なる声」を信じるというところに着地しそうです。深く信仰を持つ人の狂気ではなく穏やかさこそが、私の求めるものといってもよいかもしれません。

それぞれの信仰をお互いに尊重して生きる世界は、穏やかで、バラエティーに富んだ生き方を楽しむ、とても満ち足りた世界なのではと思うのです。

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