共振の実験というものを見たことがあるでしょうか?
例えば、二つの音叉を少し離して置いておいて、片方を叩いて鳴らした後にそれを手で止めても、もう一つの音叉が共鳴して音を出しているというものです。何か楽器を鳴らしたら、同じ部屋においてあったギターが触っていないのに鳴りだすというのも同じ現象です。
振動(バイブレーション)というものが、人間にとっても影響があるのかどうかは、音楽などでもわかりやすいと思います。心地よい音楽、ざわつく音楽。心が感動で震える曲、気持ちが悪くなる曲。これらは、単に感情に影響があるだけではなく、身体にも影響があるのだということを、私は何度も体験しています。
少し前のことですが、ツイッター(今はX)で吐き出されている愚痴の投稿を、情報収集の目的でかなりの時間読み続けたことがありました。私は集中癖があるもので、その日はちょっと度を超して長時間読み続けてしまい、スマホを見続け過ぎた目の酷使とあいまって、夜には酷い偏頭痛が起こりました。
首や肩をほぐして一晩眠れば、たいていそういうのは治るのですが、その偏頭痛は翌朝になっても残っていて、辛くてどうしたものかと悩みました。
その日はもう愚痴ツイートを読むのは止め、何か心地よいものを聴こうと思いYouTubeにアクセスしたら、前から気になっていた盲目のピアニストの辻井伸行さんのドキュメンタリーが目に留まり、それがあまりに興味深くて、気づいたら2~3時間見続けてしまいました。
そして、はっと気づいたのです。あんなに苦しかった偏頭痛が、いつの間にかまったく無くなっていたのでした。辻井さんのドキュメンタリーの中では、何度も何度も彼のピアノ演奏が流れていました。心が奪われる美しい音に夢中になっていたら、ひどい頭痛が消えていたのでした。
その消え方があまりにもドラマチックだったので、その後も色々なことでそれを検証してみました。例えば、ちょっと気持ちが暗くなった時や、いつもなら孤独感に襲われるシチュエーションのときに、辻井伸行さんのアルバムを聴くようにしてみたのでした。
効果はてきめんでした。気持ちが落ちないのです。落ち込んでいた気持ちがどこかへ行ってしまうのです。ただただ、その美しい音色に耳を傾けているだけで、「心地よい」状態が静かに続くのです。
私は特にクラッシックファンというのではなかったので、きっと他にも美しい音色を奏でている音楽家はたくさんいるのでしょうが、その他の演奏家の音楽ではまだ検証はしていません。ただ私が思うには、演奏がうまいとか下手とか音楽性が高いとか、そういう問題なのではなくて、あくまでも演奏する人が放つバイブレーションが、演奏という形をとって拡大し拡散されるのでしょう。
辻井さんは、お話しされている様子を見ても子供のように純粋な方で、盲目という通常ならハンデをむしろ逆手にとって、あちらの世界(生まれてくる前の世界)のバイブレーションそのままに、大好きなこと(ピアノ)でその振動を多くの人と共有されているのだと感じます。
自分をどんなバイブレーションのものと触れさせるか、どんな振動を放っているものを身の周りに置くか、どんなものを目にし耳にし手に取るか、誰と話をし誰と付き合うか。それらすべてが、自分に影響を及ぼし得るのだということを、知っておく必要があるのだと改めて思いました。
見る映像、聞く音楽、読む文字、目にする景色。
触れ合う人、話をする人、目にする人。
自分が自分に影響を与えるバイブレーションは自分で選べるのだということに意識的になり、それを自分に与えることを許可することが、どんどんエネルギー的に繊細さを増していっている今の私たちにとってはとても大切なのだと思うのです。
人間の悩みのほとんどは、幼い頃から身につけてしまった、自分以外の人間から与えられた自分には合っていないものを「受け取らなくてはならない」という思い込みゆえに起きているように思います。
例えば、自分とはあまりにも異なる家族の考えや、自分が望まない何かの慣習。学校や会社などで、たまたま一緒になっただけの人たちとうまくやること。それらが、自分にとって新しい世界を開くきっかけになることなら、自分がそこに合わせることを心地よく感じるなら、自分とは異なるものにチューニングするのは面白いことかもしれません。
しかし、そうしなければならないと勝手に思い込んでいるばかりに、自分とは異質な、しかも心地よくないバイブレーションに合わせることは、自分が思っている以上に心身に影響を及ぼすようです。
特に、生まれ育った家庭において、親や保護してくれる立場の人間と合わないときは、子どもには「生き辛さ」が生じやすくなります。なぜなら、幼い時から繰り返し繰り返し触れるその人たちのバイブレーションは、記憶の中の言葉と共に、それが現実に目の前になくても、大きくなったその人に簡単に影響を及ぼすからです。
自分のものだと思っている「思考」が、実は親などから「刷り込まれた考え方」であり、その考え方が浮かび上がるだけで、その時それを教えた人が放っていたバイブレーションに自動的にチューニングされてしまいます。それは、本来のその人自身のものではないので、そこには「違和感」が生じ、その人は自分の「心地よい状態」から離れた振動域に入ってしまうのです。
逆に考えると「心地よくないとき」は、自分とは合わないバイブレーションにチューニングしているときだと知ることができます。それなら、意識的にそこから離れればよいのです。自分が「心地よくなるもの」や「心地よくなる場所」、そして「心地よくなる人」と触れ合うことを選択すればよいだけです。
浮かび上がってくる考えによって心地よくなくなるなら、その考えの出所を探ります。それは本当に自分が考えたことなのでしょうか?それを教えた誰かはいますか?それを信じてしまった過去の自分は、どうしてそれを受け入れたのでしょうか?
例えば、「食べたら太る」という考えが浮かぶとき、その人はとても美味しい何かを心から味わう幸せから遠ざかります。心地よさから遠ざかるわけです。実際には、一度何かを食べただけで太ることなどありません。
私は、小学校の中学年くらいまでは、まったくそういうことを気にしてはいませんでした。しかし、父に憎しみを持っていた母が、父(太っていた)を憎む気持ちをのせて、憎々しげな言葉とともに太ることへの罪悪感を私に植え付けました。
私はまんまと母の言葉を私の考えとして無意識に採用してしまったので、いまだに美味しいものを前にしても、一度は「食べたら太る」の呪いの言葉(笑)が浮かびあがります。母のその憎々しさを湛えたバイブレーションを呼び起こし、それに触れて心地悪くなるのです。
実際の私のBMIは適性体重で、過去の恋人も今の夫も私の体型に文句を言う人は一人もおらず、むしろ痩せてくれるなのタイプばかりなのですが、いつもどこかで太ることが気になる自分がいます。まったくのナンセンスですし、なぜこんな心地悪さをひっぱりだすのかとあほらしいくらいです。
なので、記憶から触れて共振する心地悪いバイブレーションを、意識的に切り替える練習をしているこの頃です。何かを食べるときには、その美味しさに焦点を当て、味わうことを楽しむようにしています。また、落ち込みが起こりそうなシチュエーションの時は(自分のパターンを知っているので)、軽やかで美しい音楽を流したりします。あえて外の空気を吸いに行き、草花に触れ、その美しい振動に自分を共鳴させます。
実際に心地悪いモノ・コト・人と距離を置くことに加えて、記憶・刷り込みというやっかいなものからくる違和感に気づいて、そのバイブレーションから離れることは、人生における幸福度を上げるためにとても必要なことだと思います。
心地よいものだけに囲まれる人生は、意識的に私たちが手にしてよいものです。「共振する」ことを忘れずに、自分が触れるバイブレーションに意識的になることは、幸せに心地よく生きるコツだと言ってもよいのではないでしょうか。
*私が心地よくなる辻井伸行さんの美しいショパンのノクターンをどうぞ♬
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