コロナでお預けになっていた息子の挙式がハワイで行われた。幸せの記録はSNSや別のブログに書かせてもらったのだが、これは同時進行で私の心の中で起こっていた毒親からの解放のプロセスのお話。
長女から始まって二女・長男と順に、色々なしがらみや義理を排除できることと、純粋に祝いたいと思ってくれる人だけが(旅費を払ってまで)参加してくれるので、うちの子供たちは全員それを好んで海外挙式を選んだ。
しかし、家族にとって最高に幸せなこのイベントにも、実は私の毒親問題が絡んでいる。(もちろんそれに囚われているのは私だけで、私以外の家族は全然気にしてはいない)
7年前の長女の結婚式のときは、まだ私は母が毒親だということには本当の意味で気づいておらず、何度かの反抗期のようなものを通り抜けたと自負して、依然として母と共依存関係に陥っていた。
思い返せば、私はいつも母を喜ばせたくて、行ったことのない海外旅行を口汚く貶していた母のために、へそくりから旅費まで出して、初めてのハワイ旅行に連れてきた。それ以来彼女は自説を180度変えて、海外旅行をしない友人を貶すようになり(改めてヤバい人だと思う)、私が子育てで忙しかった時期も、彼女は一人で時には友人とあちこちのツアーに参加し海外旅行を楽しんでいた。
長女がハワイで挙式をすることになった時も、母はもちろん私の家族と一緒に行きたいと言うのでそのつもりで私は準備をしていた。しかし、弟がビジネスクラスで行く旅費を出してくれると言いだしたら、簡単に寝返った。(その時の私は、それが多分悲しくて悔しかったので、こういう表現になる。笑)
事件は挙式前夜に起こった。
弟家族と一緒にレストランで楽しく食事をしていたら、いつも辛辣な弟が、何かの拍子に母に説教のようなことを言ったのだ。父が悪者で自分は被害者だというようなことを言う母に、どちらかというと父派だった弟が、冗談めかした口調だがビシッと本当のことを言った。
それが気に食わなかった母は自己憐憫の権化となり、あろうことかレストランのど真ん中で大きな声で泣きながら叫び出したのだ。
一斉に人々が振りむいた。後で聞いたら、うちの子ども達と弟の子供達は、とっさに全員が「やばい婆さん」と他人の振りをしたと言っていた(笑)
この時私は、すばやく母にとっての癒しの存在のポジションへと入り、泣き叫ぶ母を化粧室につれて行き、優しくなだめた。弟はその時、「ねーちゃんがそうやって甘やかすから、この人はいつまでも調子にのっているんだ」と私にまで説教した。(・・が、今思うと弟は正しかった!)
ビジネスクラスでハワイにまで連れてきてくれたのに、弟は一瞬にして母の敵となり、その晩母は私たちのホテル(コンドミニアムタイプ)に泊まりにくることになった。
そうして翌朝、またもや事件が起こる。
リビングのソファーベッドで眠った母は、ホテルの毛布を弟のコンドミニアムに持って帰りたいと言って聞かない。母を連れてきたために、弟はベッドが足りずにコンドミニアムのソファでバスタオルで毎夜寝ていたらしく、それで肩身がせまいので、この毛布を持って帰って次は自分がソファで寝るのだと言う。
いくらなんでも、ホテルの備品を別の場所に持ち出すのは嫌だったので、私は断った。すると再び母は泣き叫んだ。今度は私が裏切りものになったらしい。(今から思うと、当時の母は精神科にかかってもよい状態だったなと思う)
その時はさすがに私も呆れ果てて、なぜ幸せなはずの長女の結婚式でこんな嫌な思いをしなければならないのだろうと落ち込んだ。でも、せっかくの長女の幸せな時間にケチをつけたくはなかったので、大人になることにした。
式場でバツの悪そうな顔をしている母に、私は何事もなかったのように接した。(それでも結婚式の写真には、拗ねた顔をしている母が写っている。あれはバツが悪そうだったのではなくて、自己主張で怒っていたのだと、今改めて気付いた!)
この時に母の行状を目撃していた二女と長男は、自分の結婚式には絶対に祖母を呼ばないことを心に決めたらしい。
そして3年前、二女は頑としてハワイの結婚式に祖母を招待しないことを貫いた。一番大切なのは二女の気持ちなので、私は何も言わなかったが、その頃の私はまだまだ母の毒で一杯だったので、母への罪悪感を感じて苦しかった。
後で聞いたら、母は招待されていないのに、大好きな二女のウエディングドレス姿を見たくて、勝手に旅行社に行ったらしいが、直前の旅費が高すぎて諦めたらしい。(愛よりお金なのだ!笑)
それを聞いた二女は少し気の毒になったらしく、国内での二次会パーティーに祖母を招いてくれた。しかし、ウエディングドレス姿を見ることができて嬉しいと言っていたのに、実はハワイに招かれなかったことをずっと恨みに思っていたことは後で判明する。
そして今回の長男の結婚式だ。長男は元々祖母があまり好きではなかったこともあり(彼女は男が嫌いなので、息子と娘達との扱いに差があった)、最初から彼女を招待するつもりはさらさらなかった。
しかし、絶縁状態にあるはずなのに、私の呪縛はまだ解けてはいなかった。私は母がハワイに行きたいと思うだろうと、意味不明な罪悪感をもてあました。楽しくてならないはずの家族のイベントに影を差す母の存在とずっと向き合っていた。もちろんそれは、とことん私の心の問題だ。
そんなある日、母から無言電話があった。(基本、現在私は彼女と連絡をとっていない)あちらの気配はするのに応答がないので、もしや倒れてでもいるのかと心配になり、少し悩んだが、私は電話を切ってこちらからかけ直した。すると元気な声で母が電話にでるではないか!
母は私からの電話がよほど嬉しかったらしく、色々と話をしてきた。毒の抜けきっていない私も、どこかでほっとして、息子のハワイ挙式の件を伝えてしまったのだ。すると、招待もしていないのに、「そうなのね~。ごめんね~、私は行けないけど楽しんできてね!帰ったらまた写真見せてね」と言うではないか。コロナ禍さまさまで、さすがに85歳の母は外国にはいま行く気がないらしい。私は心からほっとして、嬉しくなって夫や娘達にそれを伝えた。
そして三度事件は起こった(笑)
県内に住む二女が、母から電話で乞われ、ハワイの前に母のところにベビーを連れて顔を出すことになっていたのだが、急にベビーが発熱したのでキャンセルの連絡を入れたのだった。そして、ハワイから帰ったら少し期間をおいてからまた行くねと伝えると、母は「そんなこと聞いてない!」と怒り出したらしい。「私がハワイのことを聞いて忘れるはずがない!!」と。
二女は私の話を聞いていたので、ママが伝えてあるはずだと言うのだが、母の怒りはエスカレートし、自分をぼけ老人に仕立て上げて、私が皆に嘘を言っているとまで言ったらしい。挙句の果てに、二女がハワイ挙式に呼ばなかった恨みまで罵詈雑言を浴びせ、優しい二女にまでとうとう見放されてしまったのだ。
毒親の猛毒は身体の奥まで染み込んでいる。ここまでひどいことを言われても、私は心のどこかで母を気にかけている自分に驚いた。私さえすべてを飲み込めば、ハワイで母の笑顔が見られるのではないかと想像する自分に驚いたのだ。
出発するほんの二日前まで、私はその思いを捨てきることができず、夫には呆れられ、二女には叱られた。何よりこれは長男の結婚式なのだから、彼が望んでいないのに、勝手におばあちゃんを呼ぼうかどうかと考えるのは、長男に失礼だと叱られてしまった。全くその通りだ。
因縁と言うか、偶然と言うか、長男の挙式後のパーティーは、以前母が泣き叫んだレストランで行われた(笑)子ども達はそれをジョークにして笑い飛ばしていたので問題はなかったのだが、私は気になっていた。母の呪いがかかるのではないかと、ひそかに恐れている自分がいることが情けなかった。
これは儀式なのだと言い聞かせた。偶然は私への後押しで、私は全く同じ場所で幸せになれるのだと確認する機会が与えられたのだと思う事にした。
そして、ありがたいことにその通りになった。美しい結婚式と最高にハッピーな食事会が行われ、その間に私は母のことを思い出すことは一切なかった。そう、それが私の真実なのだ。
しかしその後、母の毒は時々私に悪さをした。私は、母好みのお土産を見つけた時、それを買って帰らなくてはいけないような罪悪感を感じた。その度に、夫や娘や息子に確認し、彼らが一切その必要がないという言葉に助けられた。
リハビリはきっとまだ続くだろう。毒親の毒はあまりにも深く私に浸透し、長年私を洗脳し続けたので、完全になくなることはないのかもしれない。
それでも私は、今回の旅で何歩かは進んだと信じている。母のことを思い出さずに、自分の家族と幸せな時間をたくさん過ごせたことは、私の未来をちゃんと変えていっていると思う。
ハワイの青い空の下、アフターコロナの世界にタイムスリップしたような穏やかな時間を楽しめたことは、自分ファーストで生きることへの後押しだった。母に買ってあげたかったお土産の代わりに、自分のために自分が一番欲しいものを思い切って買った。それがすんなりできないことにもどかしさを感じながらも、私はがんばって自分を大切にできたと思う。
そう、「がんばって」がなくなるまで、自分を一番大切にできる自分へと、私はこれからまた進んでいこう。母の毒はたとえ完全にはなくならなくても中和され、私は私だけの感覚にしたがって生きていけるのだ。
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