もう随分昔のことですが、友人の放った一言にとてもびっくりして、その時の情景が写真のようにクリアに頭に浮かぶ出来事があります。
どういう話の流れだったのかは忘れましたが、私はその友人に「自分って、人とは違う特別な人間だと思ってる?」と聞いたのでした。
彼女は真剣な目をして少し考えて、「うん、思ってる」と答えました。
私のそのときの質問は、「世界に一つだけの花」のような「誰もが特別なオンリーワン」というのではなく、「人より優れたものがあって、認められるべき人間か?」というもので、それは彼女も理解していたのは確かでした。
私は多分その時、「自分は何か特別な人間でありたい」というエゴについて考えていて、その頃一番親しくしていたその友人が、そのことについてどう考えているのかを聞いてみたかったのだと思います。
そうして、正直に答えてくれた彼女に対して私がとても驚いたのは、どこからどうみても平凡(一般的に見るなら)としか言えないその友人が、自分は特別な何かを持っていると固く信じていて、それを口にしたという予想外のことにでした。
それはある意味、私への天からの答えでもありました。
「自分は人とは何か違う特別な人間だ」と本人が信じていても(もしくはその信念がないと生きるのが苦しいとしても)、傍から見れば、その人には何も特別なものがあるわけではなく、ごくごく平凡で飛びぬけた能力など何もない人だとわかるのだという事実でした。
そしてそれは、彼女の答えに衝撃を受ける私のために起こった出来事なのでしょう。そう、彼女の姿は私の姿でもあったのだと思うからです。
この友人との出来事との更に遠い昔、私はその当時の親友を若くして亡くしたことがありました。
彼女は、小さい子供をお互いに抱えながら、英語力を上げるために一緒に切磋琢磨していた仲間でした。
今にして思うと、二人の共通の思いは「普通の主婦で終わりたくない!」でした。田舎で英語ができる人は「特別な人」という括りがあり、手が離せない小さな子供を育てながらも、平凡である自分から脱却したいという思いを持っていた私たちには、もってこいの取り組みでした。
しかし、共に学んでいた楽しい日々はあまり長くは続かず、彼女は癌を告知されて闘病生活に入りました。当時一緒に学んでいたラジオ英語講座で知ったウィンストン・チャーチルの名言「Never, never, never give up.」を私に残して、彼女は入院しました。
病室でもテキストを積み上げていた彼女でしたが、ある日見舞いに訪れたら、突然それがすべてなくなっていたのでした。
それは、インフォームドコンセントを受けていた彼女が、自分の余命に限りがあることを受け入れ、これまでの生き方を手放したということでした。
私と彼女との話題はいつも英語のことだったので、その日から私は彼女と何を話してよいのかわからなくなってしまいました。私は葛藤しました。彼女が英語をやめたことは、私自身をも揺さぶりました。
それからは時折、彼女から独り言のような呟きを詩にしたものが送られてきました。これからやってくる彼女の死をまだ受け入れていない夫には話せない心の内を、唯一話してもよいと私を信頼してくれたのでした。しかし、私は彼女の言葉に打ちのめされ続けました。
彼女は、ファーストフード店でパートで働くのは嫌だと言ったかつての自分を恥じると言いました。英語を使って仕事をする人がより上等だと思っていた自分を心から恥じると言いました。普通の主婦が嫌だと言った自分は、その普通のことがもうできないのだと、悲しそうに言いました。
私の人生観までもグラグラになりました。彼女の闘病生活に費やされた10ヶ月は、私にとっても人生を揺さぶる10ヶ月でした。
「自分って何だろう?」という問いがでてきた時には、私はこの二つの出来事を思い出します・・というか、思い出されてきます。
『特別な何者か』になれていない自分・・というような概念が少しでも自分の中に浮かんでくるとき、私はその罠に落ちないように自分を戒めます。
親友が見たかった娘さんの成人は、もう随分前に過ぎ去りました。あの時まだ1歳だったうちの末っ子も、大人になって結婚もしました。
彼女が見たかった風景を、私はちゃんと見ているでしょうか?
私は私の幸福を当たり前だと思わずに、心から感謝し慈しんでいるでしょうか?
『特別な何者か』にならなくてはと思うのは、自分以外の場所からやってきた呪いのようなものだということを、忘れずにいようと思います。
四半世紀の時が過ぎても、いまだに私に大切なことを思い出させてくれるHさん、あなたに出会えた幸運に感謝します。
正直に答えてくれたあの時の友人にも感謝です。ありがとう。
さあ、今から「世界に一つだけの花」でも歌おうかな(笑)
No.1にならなくてもいい、もともと特別な Only one!!
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