愛犬が虹の橋を渡って十日が経ちました。15年半もの長い間一緒に暮らしたうちの末っ子は、自分を人間だと思っている神経質で気分屋で吠え声の大きいとても愛くるしい二男坊でした。
長女が高校2年生の初夏に、学校で色々とすり減っていた彼女から、癒しが欲しいと犬を飼うことをせがまれました。
実は私はあまり動物が好きではなく、植物や鉱物の方が好きです。しかし、長女に乗っかった犬好きの長男と夫の後押しもあり、衝動的に家にお迎えしてしまったのがヨークシャーテリアのレンでした。
散歩もお世話も一生懸命やるから!という長女と長男の言葉は、世間のうわさ通り一時的なものでした(苦笑)結局のところ、レンの世話の責任者は動物苦手の私となり、それは15年半もの長きに渡ったわけでした。
皮肉なことに、長女と長男が家を離れてからは、同じく動物嫌いの二女もレンの世話をするはめになりました。私たち二人は、なぜだかよく癇癪を起したレンから噛まれるという試練にあい、痛すぎて大泣きすることで、当時の自分達の中にあった悲しみをリリースする作業を何度もさせられました(笑)
二女も家を離れて、そしてコロナ禍となったこの2年の間、レンは私と一緒に海に出かけたり、桜を愛でたり、近所を散歩して太陽を浴びるパートナーになりました。彼がいなかったら、きっと私は鬱になっていただろうと思います。子ども達がすべて巣立っても、夫といきなり二人暮らしになるのではなく、レンがいることがよい意味でクッションとなり、徐々に私たちは新しい生活スタイルに馴染んでいけました。
しかし、およそ1年ほど前からレンの目は白濁し見えなくなり始めました。半年程前からは痴呆の症状も出て、徘徊したり同じ場所をぐるぐる回るようになりました。身体も徐々に弱っていき、フードを食べてはいるのですがどんどん痩せていくのです。それに加え、夜中に何度も吠えて私たちを呼ぶので、私は新生児のお母さんのように、毎晩2~3回、多い時には4回も起こされました。
新生児ならいずれ育てば終わる夜泣きですが、レンの場合はそれが終わるのは死ぬときだとわかっていました。半年以上続いた熟睡できない夜は、徐々に私の精神を蝕み、いつしか私は彼の死をどこかで願うようになってしまいました。
私は聴覚過敏で嗅覚も異常に鋭いため、身体は衰えているはずなのにいつまでも大きなレンの吠え声と、歯槽膿漏からくる臭さに閉口していました。心地よいはずの我が家が心地よくないことが苦しくて、いつまで我慢しなくてはならないのだろうと、衰えていくレンに同情しながらも腹立ちを抱えていました。
そういう自分が情けないと思い、つくづく自分は何かを世話するのに向いていない我儘な人間なのだなと悲しくなりました。三人子供を産み育てましたが、本当はそんなに産んではいけない人間だったのだなと改めて思いました。
レン、子ども達、ほんとうにごめん。私はだめなお母さんだったよね。
レンは死の3~4日前から、これまでとはケタ違いの異臭を放つようになりました。臭いに鈍感な夫でさえ、臭いなと言いだしました。それがどういうメカニズムで起こっているのかわかりませんが、もう死がすぐそこに迫っているのだなということはわかりました。
からだはもうよたよたなのに、痴呆のせいでレンは起きると部屋を徘徊します。疲れるとどこかでスイッチが切れたように眠るので、そっと抱き上げてベッドに戻すことが繰り返されました。強烈な匂いは包んでいる毛布にまで移るのですが、こまめにそれを取り換えて、私はできる限りレンを抱くようにしていました。そうすると安心してすやすやと眠るレンが愛しくて、夜中に何度起こされても優しい声で対応することができるようになりました。
ずっと前からそれができていればよかったのに。終わりが見えなかった時には、何度も唐突に眠りを妨げられるのが辛すぎて、怒鳴ってしまったこともありました。ほんとうにごめんね、レン。許してください。
いつもとは違う甘えるようなクゥーンクゥーンという吠え声で、夜中に4回は起こされた翌日、レンの身体が死へと移行しようとしているのがわかりました。前日まで歩いていたのに、唐突ではないけどその日はやってくるのだ・・となんだか現実ではないような不思議な感覚でした。
まだ息のあるうちにと、遠方の長女と長男にテレビ電話を繋いでレンとお話ししてもらいました。近くに住んでいる二女にも連絡したら、家に来てくれました。
既に泣きじゃくっている長女でしたが、保育園でコロナの濃厚接触者の疑いとなりPCR検査の結果待ちのおチビちゃんたちがゆっくり泣かせてくれません(笑)ある意味それでよかったな~と、落ち込みやすい最初の飼い主の長女の幸運を思いました。
二女は眠った1歳の息子を膝に抱き、私はレンを毛布にくるんでずっと膝の上に抱いていました。テレビ電話の向こうでは、孫達の賑やかな声が聞こえていて、長女と二女がおしゃべりをしている時に、レンは最後の小さな声をあげ、手足を一瞬ピンと伸ばし、静かに肉体から出ていきました。
「最後の時を看取るのは辛くて絶対に嫌だから、私たちが留守の時にパパが看取ってね」と言っていた二女と私が、レンを見送ることになったのでした。レンは夫の帰りを待っているのかなと感じていましたが、あと1時間及ばずでした。
静かで優しい時間が流れている時に、レンは穏やかに虹の橋を渡っていきました。想像していたのとは違った、温いものに胸を満たされるような最後の時でした。悲しいけれど、レンに対する愛しさが自分の中に満ちて、なんとも言えない感覚を味わいました。犬だけれど、大往生と言ってよいのかなと思いました。
一晩みなでレンを見守り、翌日のお昼に家の前に火葬車というものに来てもらって、うちの駐車場でレンの肉体を天に返しました。優しい係りの人に寄り添ってもらって、レンを色取りどりの花で囲みました。一年に一回誕生日に食べるのが大好きだった犬のケーキを買ってきて、大好きだったリンゴも一緒に供えました。
長女ともテレビ電話を繋いで、人の斎場でのように、最後に泣きながらも心を込めて送り出すことができました。火葬の間待っている時も、皆でレンの思い出話をしながら穏やかな時間を過ごすことができ、私達は幸せにレンを見送ることができたのでした。
動物嫌いの私にペットロスなんてあるのかなと思っていましたが、ありました。レンは動物ではなくて家族だったのだなと、改めて思いました。一番大きな孫娘でもまだ6年しか一緒に過ごしていないのに、レンは15年半もずっと一つ屋根の下で暮らしたのです。彼は間違いなく私達の子供でした。
一週間の間は、ひとりになると急にスイッチが入って辛くて号泣してしまうので、夫や二女に助けてもらいました。人間でいうところの初七日が終わり、私は気持ちを切り替えることにしました。犬は無償の愛の権化なので、私たちが悲しんでいると、なかなか側を離れないそうです。虹の橋を渡ったはずなのに、ずっと振り返らせていてはいけないので、もうあちらの世界に戻ってもらうために、フードやお水も片付けました。見えない存在として私たちの心の中で繋がってもらうには、写真とお花で十分です。
リアルにお別れができていない長女と長男が帰省するまでは骨壺は部屋に置いておきますが、その後は大きなプランターを買って来て、土の中に骨をうずめ、その上に花のなる木を植えようと思っています。愛しいレンの肉体の残りが土に還り、美しい花を咲かせるのを見たいなと思うからです。
タイミングなのでしょうか、奇しくもレンの死の一週間ほど前に、私は48年間持っていたピアノを手放しました。それは母の呪縛の代名詞のようなものだったので、私にとっては大きな手放しでした。そしてまた愛犬の死という次なる大きな手放しが起こったのでした。
不思議なことですがレンを失ったことで、私と夫との結びつきは以前より深くなったような気がしています。きっともう向き合う相手がお互いしかいなくなり、ある意味覚悟が定まったような感じなのでしょう。以前とは何か見える風景が違うような感覚なのです。そしてそれは、私たちの未来への道が何か軽やかに開けていくような予感と共に、私にとっては心地よい状態であると言えるのを嬉しく思うのです。
「レン、私たちの元に来てくれて本当にありがとう。いいお母さんではなかった私だけれど、レンを可愛いと思っていた気持ちは本物だったよ。たくさんの愛をありがとう。家族の結びつきを深めてくれてありがとう。私が虹の橋を渡るとき、また会えることを願っているよ。それまではあちらの世界で、しっぽを振って元気に楽しく走り回ってね!」
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