ずいぶん前に、「自分の人生のキーワード」というものを探るワークをしたことがあります。
魂がこの世に生まれて体験しようとしたテーマに、自分自身が意識的であるために探り出したその私の6つの言葉の中に、「自由」というものがありました。
そしてそれは、私にとっては一番といってよいほど大切でパワフルなキーワードなのですが、同時にそれに対しての取り組みがあるという意味でもあったのです。
「自由であること」は「自分らしくあること」と言い換えてもよいかもしれません。
なのに、その「自分らしさ」を見失っている人は、思いのほかこの世には多いのではと感じます。
なぜなら、これが「自分」だと、他ならぬ自分が認識している「自分の在り方」が、実はそうではないことが多いからです。
よく言う「自分探し」をしたい人、している人は、今の自分が魂そのものの波長を生きているのではないことに薄々気づいている人なのでしょう。
自分なんてどこかにいなくなってしまうものではないのに、あえて「自分を探す」なんて、よく考えればおかしな話です。でもそれは、おかしな話なのではなくて、魂からのSOSをキャッチしている状態なのです。
自分がやりたい!と感じることを行動に移し、そのことに喜びを感じ、熱中し集中している状態の人は、決して自分探しなどしません。取り組んでいることがたとえハードなことや苦労があることであっても、楽しくて楽しくて、他のことなど気にならないはずです。
私が感じるところの「自由」とは、そういう状態に自分がなることに「何の制限も自分に課さない」ということと同義です。
ということは、「自由でない状態」というのは、何らかの制限を自分に課している状態であるということになります。
自分探しというのは、「その制限が何かを探りだし、自分の中から湧いてくる声に従うことを阻むそれから自由になりたい!」ということなのではないでしょうか。
無意識といってよいレベルで自分に課す制限とは、ほとんどの場合、親や世間からもたらされたものであり、実際にそれがあるのではなく、自分の思い込みがあるだけです。
なぜなら、小さい子供たちにはまだそれがなく、放っておいたら、鳥の真似をしてベランダから飛んでしまうことさえあるからです。
か弱いこの肉体という入れ物を守るための制限は、地球上で生きていく時には必要なものもありますが、それでさえも、8000メートル級の山に登る人とそうでない人との間には、全く異なる制限があるはずです。
「自由」というのは、自分の魂の目的をこの世で顕現するために、不必要な制限を自分に課さない!ということなのだと私は思います。
なので、その制限を作るようになった最たるものの正体に気づくということはとても重要です。これまで何度か書いてきましたが、自分の無意識レベルに刷り込まれているマニュピレーター(操作する人)の存在に気づくこと、それが自由を手にするために避けては通れないことなのだと思うのです。
最近私に衝撃をもたらしたのは、「ほんの少しでも子供に罪悪感を持たせる親は毒親ですよ!」というある方の言葉でした。
優しくて繊細で思いやりのある人ほど、自分で気づかないうちに、親への罪悪感で自分を縛っていることが多いと感じます。
我儘な子供なんて多分いないのです。「我儘(わがまま)」という言葉は、「我のあるがまま」なのです。その自然な子供の状態でいることを許されなかった人が大人になった時、自由という言葉が遠い生き方をしてしまうのだと思います。
幸せに生きるということは、自由に生きることだと私は考えています。幸せは「状態」ではなくて、「在り方」なのではと思うからです。
自分が自分に無意識に課している「制限」というものを、今一度クリアに認識してみることは、自由に生きる道の第一歩だと思います。
別のマガジンに分類して書いたものですが、よかったら下記の過去記事をぜひ読んでみてください。より自由に生きるためのヒントと後押しになれば幸いです。
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